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雑記 のアーカイブ
組織は命ある有機体である
要するに生き物であるという事です。
人類の出生者数と死亡者数は中長期的には必ず等しくなるように。
星が誕生し、必ず寿命を迎えるように。
組織もまた人という生き物が創ったものである以上、必ず死を迎えると言われています。
それは今勝ち組企業であるMSだろうがGEだろうがGoogleだろうが例外はないでしょう。
必ず終わりはきます。どんな最高の企業であってもです。
さらに小さなスパンで見るならば、全ての組織構成員はおそらくはもっと早く会社を去るでしょう。
勝ち組企業ならなおさらで、100年続いている組織において勤続100年の人はいないはずです。
基本的にもっと早く人は死ぬからです。当たり前ですが。
では、会社を去りゆく人はもはや会社にとって何の価値も無い人なのでしょうか。
私の答えは当然NO。そりゃぁ、数字的には人件費はやめた人の分無くなるわけだし、その人が働いてくれていたことによる労働価値は無くなるわけだしゼロに戻るかもしれません。
しかし、ここで思い出してほしいのが題名で書いた「組織は有機体である」っつー話。
有機体にとって、生物にとって、過去死んでいった新陳代謝の結果死滅していった細胞群は価値がないのでしょうか。
会社を去りゆく人と同じように、当然体には「いない」わけだし、一見そう見えるかもしれませんね。
でも実は、死んでいった細胞には大きな価値があるのです。
現在という概念にとらわれて考えるから価値が見いだせなくなるのですね。
過去と未来という現在なんかよりもはるかに長大な時を考えれば、いかに死んでいった細胞が価値をもたらしたか。
過去、その細胞は確実に体の一部をなしていました。
そして細胞は新たな細胞を生み、DNAに自らの存在の痕跡を刻むのです。
細胞一つ一つに未来への貢献があります。
それはDNAに刻まれた痕跡として。
価値ある死をもたらす皺として。
細胞の生と死は、生物にとって過去と未来を紡ぐ生命のバトンです。
そしてきっと、同じことが会社を織りなす人々(それは社員であり役員でありユーザーである)にとっても言えると思うのです。
会社に入ってくれた人、会社を辞めていった人。
全ての構成員がヴォラーレという生命のDNAに痕跡を残しています。
起業して2年半。
彼ら全員の残してくれた価値と、これから入社してくる方々が新たに生み出していくであろう価値とを大切にしながら、必ずビジョンとミッションを達成してみせます。
今日は決意を新たにした日でした。
以上。
幸福とは何か
- 2009-10-06 (火)
- プライベートネタ | 書評 | 書評・ウェブサービスなど紹介 | 雑記
2ヶ月くらい前から本を読む量が倍増している。なんか楽しいんだよねーありませんか無性に読みたくなる時期。
今読んでいる本の一つがこれ。
全然読み始めたばかりなのだけど、すごい面白い。
で、話の本筋とは結構ずれるのだが、人間の幸福度は実は先進国と途上国で全然変わらないという話が載っている。
要するに、幸福であるか否かを他人との比較によって図っているというのが人間の幸福度感覚だという話なわけである。
しかもその他人との比較は所得に依るところが大きいという。
確かに納得する部分がある。だがそれ以上に、なんだかこれって悲しいことだよねー。
別にお金がなくても幸せな人はいるだろうし、その逆もいるだろうけど、多くの人が自分の所得(と他人の所得)に人生の幸福度を左右されてるってのは悲しいです。
他人との相対的幸福を求めるあたり、人間が社会的な本性をもっていることの裏返しである気もします。
しかしそれ以上に自分で人生に納得しているか、というのが重要な幸福な要素であると信じたいですねぇ。
みんなが他人と自分を比べて、自分が幸福をジャッジしてるなんてなんか気持ち悪いいじゃないですか。
そうなるのなら、自分がやって楽しいことやって
「楽しけりゃええやん!」
ってやっててくれた方がすがすがしいです。
自分的には、自分なりの絶対的幸福定規を創り上げたいです。
これを達成していくのは自分の幸福度の1要因を成している!っつーものがあれば人生楽しそうです。
米国のtwitterと日本のtwitterは違う。
昔こんなことを考えていたことがある。
それは言語の違いによって文明の発展度合いって絶対違うんじゃないかってこと。
基本的に、人々が考えていることを伝える手段としては「身振り手振り」「口述」「記述」があげられる。
これらの集団はすべて実際の思考速度には到底ついていかないのではないかと考えたわけ。
要するに、「あーまじはらへったよ。マックに帰りによって飯買って帰ろう。あ、でも帰りにツタヤにも寄って新作借りたいなー。」って考える時間と口述する時間では明らかに前者のほうが早いのですね。
こう考えると、必然的に導き出される回答として、
長い単語を使う文明は進行が遅いということになります。つまり、特定の思考を伝える際、必ず言語の違いなどによって、情報伝達手段としての優劣は存在するのではないかと思ったのです。
この私の空想が正しいかどうかは別として、どうやら文章としての長さによってメディアの使われ方が変わるというのはあるようです。
twitterにおいて、140時という制限は、英語においては本当に軽いメッセージ伝達にとどまるが、日本語では結構イケるという話。
インスタントメッセージといっても言語によって情報伝達量にかなりの差が出てくるということですね。逆にグローバルにサービスを展開する際、言語の差を考える事も重要なのかもしれませんね。
でも最初に書いた言語の差による文明の発展の話って結構考えられ得ると思うんだよね。人々の生活がかなりの程度コミュニケーションによって左右されているということを考えると、そのコミュニケーションにおける情報伝達効率がそのまま文明の進展速度に作用してくるというにはあると思うんですよ。
でもこの考え方って危険で、一歩間違うと
「おれの国は言葉短いからお前の国より優れてるう~!」
とかなりそうですね。わら
人外
夏も半ばを過ぎて、秋の声が聞こえてきました。
夏といえば怪談ですが、皆さんは人外の者の存在を感じた事はありますか?
いきなり何のブログだよって感じだけど、たまたま今テレビで怪談やってたから笑
私自身はあんまり霊感が強い方ではないのですが、
父と母は意外に強いっぽいんです。
衝撃的なのが、父が昔体験した怪談です。
昔父が働いていたオフィスの向かいには建設会社の社長室が窓越しに見えたらしいんですよ。
で、当然建設会社の社長さんとも窓越しに目があったりしてたらしいんですが、
ある日窓越しに見たら、その建設会社の社長さんがずっと父を見てきたんだとか。
父が後で部下に、
「あの建設会社の社長、ずっと俺のことばっか見てきて気味悪かったぞ」
って言ったら、
「え?あの社長さん、数日前に事故で亡くなったらしいですよ」
ってことになったらしいです。父も部下も真っ青になってしまって仕事にならなかったんだとか。
こわ!
・・
って感じですね。
母は母で、テレビの超能力番組で透視をできる能力者の話をやっていて、
「封筒の中身を視聴者の皆さんあててみてください~」
みたいな参加型のやつがあって、石田純一が持った封筒の中身をあてるって企画だったんです。
それを見てた家族全員でやってみたんですよ笑
そしたら、結構複雑な写真を母はかなり完璧に書きとっちゃったんですよ。
マジで。
それ以降、自分は超能力者であると公言しています。
この前会わせた私の友人にも胸を張って言っていました笑
・・
怖い体験はしたくはないけど、
不思議な体験はちょっと歓迎です。
自分が体験したことがないことを体験するって刺激的だと思うので。
言葉の順番がいかに重要かを示す一つの例
言葉の順番は極めて大切である。
それは、外国語を覚えるときには副詞の使い方が一番難しいと言われる。
また、実際問題日本人でも正確に副詞を使えていない人がよくいる。
私自身、結構副詞には気を使うのだが、今回取り上げたいのはもっとテクニック的な話法の話。
よく営業のトークを講評する際に、「イエスセット」とか、「イエスバットで話せ」「否定から入るな」という話をする。
要するに相手に同調しつつこちらの主張を繰り出していく事で、より相手に対する説得力を増していこうという試みである。
これに対して、あぁこういうやり方もあるのか!と唸らされたのが下の記事。
まさにツンデレ営業というやつである。
最初に下げておいてあとで拾うというアクロバティックな手法。営業では使えないかもしれないですが、私生活とか交渉のテーブルにおいてはかなり使える手法ですね。何より「仕事と私どっちが大事なの?」というセリフを言われたくなってきました。
皆さんもぜひ真似してみては?
天国から来たチャンピオン
という映画を見ました。
※ストーリー(Wikipediaから引用)
ラムズのクウォーター・バックのジョーは、優勝をかけた試合の前日、事故に遭ってしまい急死してしまう。自分の死に納得できないジョーが、天使に抗議したところ、まだ50年もの寿命が残っており天使のミスで50年早く天国に召されたことがわかった。ジョーは即刻地上に舞い戻ることになったが、ジョーの肉体は既に火葬された後だった。
この映画、その後たくさん出てくる天国系映画の走りみたいですね。
私的にはラストシーンがしっくりこないんですよねぇ。
いい映画はいい映画なんですが、日本人にとっての魂の価値観と、アメリカ人にとってのそれとは微妙にずれているのかもしれないなぁと思いました。レビュー見ても人気いまいちっぽいし。。
興味があったら見て下さい。
普通にヒロインがきれいです。
選挙権について
最近選挙に関するネタがすごくホットなので、関連ネタを一つ。
私の個人的な見解なのですが(そしてかなり批判を受けるかもしれないのですが)、
選挙権に関して私は一定の制限を加えるべきではないかと思っています。
難しい法律論や憲法解釈は置いておいて、選挙権は間違いなく主権国家の国民にとっての重要な権利の一つに違いはありません。
しかしながら、現実の世界において、正直な話国民全員が均等な権利を持っているというのはおかしな話なのではないか、と思ってしまうのです。
具体的には、国民が日本の財政や政治をどれだけ理解しているのか、ということ。
要するに、個人個人によって政治に対するリテラシーが違うのにもかかわらず画一的に同等の選挙権を持つ、というのは感覚的におかしいのではないかと思います。
これに対し、政治リテラシーがない人々であっても自分たちの利益を実現させるためまたは権利を守るために選挙権を行使することができるようにしなくてはならないという批判があるのは当然ですし、それが間違っているとも思いませんが、現実的じゃあないんじゃないか。ということですね。(繰り返しますが、憲法解釈だの法律解釈だのの観点に立てば間違っていることは百も承知です。)
現実に目をやったとき、政治リテラシーが低い人々は、自らの利益と権利を守るための正解と思われる決定を下していると言えるのでしょうか。これに対しては正直疑問です。
また政治リテラシーが高い人も低い人も間違いと思われる選択肢を選択する可能性はあるかもしれませんが、前者のほうがその選択確率が低いのではないか、と思うのです。
そこで私の考えは、
①無料の政治関連のテストを全国民が任意に受けられるようにする(年齢制限とかはありかも?)
②そのテストで一定以上の点数をとった人のみに選挙権を付与する
③このテストは何度でも受けることができる
④一定期間経過すると合格者も再度試験を受けなくてはならない
ってのがいいんじゃないか、というもの。
こうすれば、選挙権を持つためには最低限の政治リテラシーが必要になるし、
それだけのテストを受けて選挙に参加するくらいじゃないと自分たちの未来を決める、という意識を欠落させてしまうのではないかな。
ここで発生する偏差に関しては、一票の格差の問題に比べればかわいいと思います。
しかし、これは選挙における案であって、もっとやるべきことはある気がするが。
視覚と聴覚
ITはまだ視覚と聴覚しかカバーできていない。
すなわち、他の五感である触覚、嗅覚、味覚に関してはITにおけるサービス発展は驚くほど進んでないわけ。
なんでこんなことを考えたかというと、
一昨日の夜にインターネット領域におけるビジネスは今後どうなっていくのかなどという答えの見えなそうな問いを考えていたから。
よく、インターネットの継続的成長はもう止まるのではないか。とか、
インターネットはやりつくした感がある。とか言うけれど、私はそうは思わない。
というか、どんな事業領域においてもやりつくすなどという事はないと考えた方がいい。
ユニクロをみよ。ウォルマートをみよ。googleをみよ。
今世界に冠たるスーパー企業はそんな業界の常識(という名の思いこみ)を打破したからこそあの地位にある。
ということで、私が思いついたオサワリ系サービスアイデアを紹介しよう!
<企画名>
どこでもオサワリサービス「どこでもさわれるんです!」
<説明>
手袋を着用する。手袋からはケーブルが出ていて、アイフォンやPCと接続。
画面でさわりたい物を指定すると、手袋に電流が流れ対象の物の感触を実現する。
その手袋をしたまま物をさわると何でも対象の物の感触となる。
つまり「プリン」を触りたいものとして指定した場合、机を触ってもパソコンを触ってもプリンのような
感触と錯覚する、というもの。
・・
まあ「どこでもさわれるんです!」は売れないかもしれないが、近いうちに触覚系のサービスは絶対出てくると思うんだよね。
タンジブルインターフェースと概念は近いかもしれないが。あ、あと遠隔地医療とかで間隔を手術する医者に伝えるみたいなのあったような・・まあ何はともあれ楽しみな時代だ。
いとしさと切なさと心強さと
- 2009-08-19 (水)
- プライベートネタ | 書評・ウェブサービスなど紹介 | 趣味 | 雑記
にはまっています。
この前久しぶりにいったカラオケで友達が熱唱していて、懐かしいなーと。
テレサテンさんの曲にしてもそうですが、唐突にむかしの曲を思い出すことってありますよね。
この曲は私が小学生くらいの頃にやっていたストリートファイターⅡのアニメの主題歌(94年だから15年前。8歳ですね笑)なんですが、そのアニメの様子までこの曲と一緒に思い出すから不思議です。
よく大人が思い出の曲を聴いて涙を流す、という話を聞きますが、
曲には当時を思い起こさせる想起力のようなものがあるのでしょうか。
実際強烈な思い出を伴う曲ってありますよね。
そんな曲はずっと覚えているんでしょうね。
思考の枠を打ち破る。開かれた鳥かごを想定する。
昨日は会社の営業部中間MTGがあった。
営業部のMTGに私が参加するのは月に二回。月半ばの中間MTGと月末の締めMTGである。
今日は昨日のMTGで皆に言った内容を紹介してみる。
・・
数年前にラルクのhydeがever greenという曲を出した。
そのPV(ページビューじゃないよ)は、彼がでかい鳥かごの中でギターを弾いている、というもの。
カメラがズームアウトしていく中で、実は鳥かごは空いているという事がわかる。
なんで、こんなPVなのかなー。まぁhydeだしようわからんな。
と思っていたが、その後どっかの音楽雑誌で、hydeのインタビューが載っていた。
彼曰く、「僕らが勝手に鳥かごだと考えているものは、実はとっくに開かれている、という事を伝えたかった」。
その時は当たり前だっつーのくらいにしか考えていなかったが、
今は実は深い事言ってたんじゃないかと思いだしている。
・・
スティーブジョブズも言ってます。1分6秒当たりで。
「あなたたちは既にありのままなのです」と。
つまり、自分が持っているプライド、外部からの重圧、作られた制度etc
これらは全て、実は何でもないのです。
そういったものは、人間がこの世で怠慢な脳みそを持っていても生きていけるように作られた、単なる言葉です。
「社長とはこういうものです」
「うちの会社の事業はこうしていかなくてはならない」
「与えられた仕事だけやっていればいい」
世の中には、いくらでもこういう「べきだ」論が存在する。
しかしこの中に、どれか一つでも普遍性のあるテーマがあるかと言えば、そんなことはない。
社長の仕事の仕方なんて、百人百色あっていいわけです。
仕事だってそう。与えられたことだけやるのではなく。与えられた仕事はやる、そしてその上にプラスオンした方がいいに決まっている。
これを単なるタスク管理、to do管理などと言いだすとわけがわからなくなる。
自分がやらなくてはならない仕事に目がくらんで、やるべき仕事に目がいかなくなる。
目的意識に目がいかなくなる可能性があります。
それらは全て人間が勝手に作り上げている思考の枠なのだと思います。
思考の枠とは、すなわち勝手な前提。思考する上での制約の事です。
例えば極端な話、与えられた仕事ではなく会社のため、自分のパフォーマンスを発揮するため、
上司に違う仕事をやらせてくれと直談判することだって出来ます。
あるいは、自分に与えられた目標達成が困難だと思ったら、
新しい手法を自分で考え、実行していく事だって人間には出来るのです。
そういった意味で、
思考の枠を打ち破る瞬間が求められる瞬間は人生で何度もあります。
自分が生きてきた、属してきた規範(という名の制約)に縛られていては最高の仕事は絶対に出来ない。
もちろん、制約の中で仕事をすることが重要な時もあります。
それはチームワークやコンセンサス。そういった事が重視される瞬間でしょう。
だから、単に思考の枠を画一的に打ち破るのではなく、
開かれた鳥かごを想定する事が重要なのです。
「鳥かご」とは「制約」を表現する暗喩ですが、
「開かれた鳥かご」を想定するという事は、
自ら制約の中に身をおき、いつでもそこから出ることが出来る状態を想定するという事です。
つまり縦横無尽です。単に制度を破りまくっても意味がない。けれど時には必要な瞬間もある。
だったら必要な時は制約に身をおき、必要な時には打ち破るという一種の越境能力を持つ必要があります。
なんか色々な所に出てくる慣用句がありそうな主張だな。
「清濁併せ持つ」
「自由自在の剣」
「風林火山」とか・・
私もまだまだひよっこですが、
必ずそんな自由自在な経営者になります。
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